溢れるほどのアートを見て来て、思うこと。
自分は、「余白」が好きだということ。
安藤忠雄氏が、こんな事を述べている。
「クライエントに対して新しい建築のアイディアを提案する際に必ず言われるのが、機能を持たない中庭や階段と行ったパブリックスペースの問題です。なぜこんな無駄な空白(=機能のない)空間を作るのかと。それに対して、私は「これは建築の可能性を広げる余白です」と答えます。
ここで言う「余白」とは、何の目的もないゼロの空間という意味ではなく、使う人のアイディア次第で無限の可能性が広がっていく、始まりの意味でのゼロの空間です。整理されすぎた空間からは何も生まれません。人間の想像力は、そこに余白があってこそ、初めて発揮されるのです。
日本の空間感性を考えると、当然「余白」というものに行き当たります。書道は余白との勝負ですよね。竜安寺の石庭は石組みだけではなく白砂の余白を見る。人は余白に可能性を見るのです。…‥
大切なのは、それぞれの場所に地域の特色を生かした余白をつくることです。自然でも歴史でも何でもいい。この都市の「余白」をどれだけ個性的に豊かに、共同体の記憶を刻んでいけるか。これからの社会の大きな課題の一つだと思います。」(CASA BRUTUS EXTRA ISSUE – THE COMPLETE GRAND TOUR WITH ANDO November 2006, p.186)
この雑誌を読んだ一年後に私は直島を訪れ、地中美術館に足を踏み入れた。コンクリート打ちっぱなしの壁は、シンプルで飾り気の無い素朴さの中に、自然光を受け入れて呼吸をしていた。ゆったりとしたスロープは直線の幾何学的な交わりが太陽の位置によってまるで計算されたかのように絶妙な陰影を生み出していた。安藤建築の中で、アートは空間の一部だった。
訴えるでも無く、見る人を飲み込もうとするのでも無く、静かにただそこに存在し、まるでその作品と会話ができるかのようだった。
特に、モネの「睡蓮」が展示してある部屋での感覚は、今でも鮮明に覚えている。あの真っ白な空間で、大きな「睡蓮」の色がゆったりと羽を伸ばしている。アートが最高の存在感を放てる空間。
私も書を書くとき、白くまっさらな画仙紙を前にして、書こうとしている文字の一角一角がどうその白い空間を埋めていくのかをイメージする。文字の「意味」が最大限に紙の上でのびのびと表現されるように、筆の運びを考える。そのとき、一番雄弁なのは、余白の部分だ。
いつか、安藤忠雄建築の「余白」の中に、私の書を置ける日が来たら、どんな可能性が見えるんだろう。
今の時点では夢のまた夢(!)だけど、大それた夢を見るくらいがちょうどいい。
それまで日々鍛錬。
余白x余白=可能性。